亀沢二丁目町内会

歴史

1.起源並に沿革

亀沢町の名は相生町3丁目の谷精一郎邸内に亀沢池と称するものがあってここに大亀が住んでいたことからこれが亀沢の町名となったと言われています。元禄7年に榛木馬場の馬場守がおり、寛永4年に本所中の下水埋立請負人の拝借地となって商家を建設し、今の町名をつけたのである。俗に1丁目を榛木馬場といい、1、2丁目を共に皆実割下水又は御竹蔵或いは御台所町と言います。

2.位置及び区域

旧御竹蔵の東にあって南北に延長しその一部は小泉町に、東は緑町1丁目の一部と南二葉町に接し、西は横網町1町目に、南は相生町に、北は石原町に対している。

3.亀沢の池

亀沢町の南方武家屋敷内にあった池で古くは大きな亀がいたと伝えられている。「この池は5~60年前までは亀沢町大路えも少し出て芦など生え茂りたるものすごき池なりし。現に寛政年中までは600坪余りの池にて芦萩など多く有りしが享和2年、寛政13年に改元あり堅川、横川等の浚ありし時、その土をもって半を埋められ亀井壱岐守清容が下屋敷に賜り、その余りは御預り池にて有りしを、後に願い上げて残り池を埋立て屋敷となせり。されど昔よりゆえのある池の由いい伝えたれば、そのかたちは存すべしとして今も百坪許りの池埋め残りで有り」とあるように「葛西志」を執筆された文政4年には池が残されたらしい。